初めて来た時は名前も知らず、お医者さんか
と思っていました。
しかし、船着き場が有って、深沢峡を見下ろす
ことが出来て・・どう見ても観光地。
インターネットの出現により、やがて確信できる
ようになりました。
中には表彰状が有り、そこに書かれている
お名前より「伊三松」なのではないか、と
思ったのを思い出しました。
女性の名前が書かれていました。
いさまつは、このように斜面に建っていて
県道は3階の横を通っています。
3階に到着。
対岸から見たいさまつ。確かに3階建て。
いろいろな物の配置は昔とそんなに違って
いないのですが、それでも人が移動しなけ
れば動かないような小さな変化が有ります。
有名なのでそれなりに訪れる方も居るので
しょう。
この看板には惑わされたわけです。
最初は医院なのかと思いました。
3階からの入口は閉ざされていますが、
斜面を降りた2階から入ることが出来ます。
斜面を降りることができます。
このまま真っ直ぐ奥へ降りると1階です。
手前右が2階入口。
まず2階から。
そんなに広くは有りません。
外観通りの広さです。
納戸には酒瓶などが有ります。
部屋には寝具などが残っています。
当時どのように使用されていたのかは
なかなかわかりません。
当初は宿泊することもできたのでしょうか。
納戸の様子などを見ると、当時の民宿や
山小屋のようで、時代を感じます。
今では木が鬱蒼としていますが、手入れを
していたであろう昔はきっと素晴らしい眺め
だったに違い有りません。
廃墟となってからの物の方が多いか・・
1991年の週刊朝日。
私がここへ初めて来たのは91年だったと
思います。
そう言えばその時、誰か住んでるんじゃ
無いのか、と思わせる臭いがしていたのを
思い出しました。
二股隧道の横の洞窟にも住む人が居る
わけですので、ここの方が快適かもしれ
ません。
こ、この照明は!!
東芝のただの10Wの蛍光灯じゃないか、
と言っているわけではありません。
後でも出てきます。
配線の細さと安定器の配置に注目です。
蚊取り線香、これは今でも使ってますね。
このような窓はあまり見かけなくなりました。
特に高級に造っていなくてもちょっとアクセント
が有ると面白く見えるものです。
天井。目貼りしてあったのでしょうか。
続いて、3階へ上がってみます。
ここは2階よりさらに狭い感じです。
上がって座敷、と言う感じです。
3階なので道路に面しています。
手前にちょっとした土産物でも置いて、
座敷でお茶でも出来たのでしょうか。
ここからの眺めは、今でも抜群です。
丸山ダムによって湖となっている渓谷の
素晴らしい眺めです。
そこにかかる赤い橋。五月橋です。
今まで2回も来ておきながら、何故あそこ
へ行こうとしたことが無かったか、不思議。
ちょっと目を移すと・・・
かなり散らかってますね。
1996年1月23日の新聞が置いてありました。
この壁の向こうは道です。
この小さい部屋、その窓越にお店の人が
居たのでしょうか。
その小部屋の中。
なんだか今では見かけない物が・・・
炭入れてた?
氷を入れてた?
氷を運ぶのも大変だったと思います。
氷の冷蔵庫です。
スイス氷冷蔵器Special
銘板が有りました。
ふたたび階段を降ります。
階段では降りられなかったので一旦
外へ出て、ここから入ります。
1階はどのように使われていたのでしょう。
お客を入れていたにしてはちょっと・・という
雰囲気ですが、バーの雰囲気も無いわけ
ではありません。
カウンターの後ろにボトルを並べてあった・・
という雰囲気があります。
ただいま15:46 おしい。
机には何か小さいビンが有ります。
ローヤルゼリー
ここにも興味有る物が・・・
目覚まし時計。
NATIONAL PANASONIC と書かれています。
裏が少し開いています。
もう少し開けてみます。
オールトランジスタ。
足踏み式のミシン。
箪笥。
そして・・・ここにも有りました。
これははっきりわかります。
発信回路が付いているのです。
細い線はどこかに置いていたと思われる
バッテリーからの線だったわけです。
つまり、いさまつには電気が来ていなかった
のでしょう。
ここに有る物は電気を使わない物か、電池
バッテリーで動く物ばかりです。
1階は崩落著しく、かなり傷んでいて外が
見えてしまっています。
外に出て、斜面を降りていくと、
東屋が有ります。
さらに下に船着き場が有ります。
どこまでも続きそうな階段です。
振り返り。
ここから見る五月橋。
とても静かな風景に満足して帰りました。
確かに、私が初めて訪れたときはまだ閉まって間もな
くかな?と思わせるものがありました。ダム工事によ
ってどうなっていくのか、いまどうなっているのか、
もとても気になります。
なぜなら、小料理屋 『 伊三松 』 の女将は1987年に病に倒れて亡くなられているからです。
何者かが不法侵入し、生活していたようですね。
聴いた話によると 『 伊三松 』 の女将が遺した功績は大きいようです。
『 伊三松 』 の存在が在ったからこそ、この辺りは繁栄したのだそうです。
小料理屋 『 伊三松 』 の家屋は 『 伊三松 』 の歴史と女将の心そのもの。
その歴史と栄華と女将の心を伝え遺すための取材を目的として中に入る者を除き、この家屋には何人たりとも侵入することは許されないと考えます。
不法侵入し、中で生活していた者は天罰が下って然るべきと考えます。
この家屋にはい何時までも残っていて欲しい。
ですが、形ある物は何時か滅びます。
人為的に荒らされること無く、ゆっくりと時間を掛けて自然に任せて土に還ってほしいと思います。
女将もそれを望んでいるでしょう。
とも感じております。
コメント頂いたように、人為的に荒らされること無く、
ゆっくりと時間を掛けて自然に任せて土に還ってほしい。
私も同じ思いであるはずなのに、「人為的に荒らされる
こと」を誘発しているのではないのか、という自問が
有ります。(と言うか、間違いなくそうなっている)
廃墟に限らず、発電所跡や鉱山跡、など、それが現役
だった頃の姿を想像し、思いを馳せる。そして、同じ
ように思う人と、その情報を共有できたら、と思って
インターネットに投稿していましたが、ここ最近では
不特定の方々が見られることによる弊害の方が大きいな
と思うようになっています。
あらためて考えて、これを書いたのが2011年。
まだ10年も経っていないのか、と。ここ最近の情報化
の進歩の早さを痛感する次第です。